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沖縄特攻義烈空挺隊 逝きし叔父の手紙と戦後譚 その1 (川﨑)

カテゴリー:ブログ 更新日時:2018年2月19日 

  プロローグ

 「おとうさん、あったよ。おじさんの名前が。」

 娘の声が、沖縄の真っ青な夏空に響いた。

 娘は「平和の礎」の案内所の端末画面に見入っていた。

 私と家族は、三年ぶりに沖縄本島の南部戦跡にある県立平和祈念公園の「平和の礎」を訪れ、その案内所の中で刻銘碑の氏名を検索する端末画面から、私の叔父川﨑秀義の氏名を見つけることができた。

 平成12年8月のひたすら暑い夏の昼下がりであった。

 私たちは、叔父秀義の氏名が刻まれている刻銘碑を探してその前に佇み、川﨑秀義の名を確かめることができた。

 先の大戦後半世紀を経て、沖縄で戦死した叔父の名を平和の礎の刻銘碑に刻して頂いたことに、私は深い感慨を覚えた。

 

  叔父の軍歴

 私の父の弟である川﨑秀義(大正10年6月12日生)が従軍した「陸軍履歴書」が私の手許に残されている。その履歴書には、このような軍歴が記されていた。

 昭和17年3月29日、二等兵で臨時召集により工兵第四連隊に応召

     同年9月29日、一等兵(進級)

     同年12月、挺進第四連隊に転属

 昭和18年3月29日、上等兵(進級)

     同年9月29日、兵長(進級)

 昭和19年3月29日、伍長(進級)

 昭和20年6月10日、沖縄島にて戦死、少尉(進級)

 これが叔父の軍歴である。挺身隊とあるのは落下傘降下による攻撃を主とする空挺部隊のことである。

 また、昭和21年3月10日付けで、奈良地方世話部長(当時の官名)から私の祖父川﨑末治郎に送られてきた叔父秀義の「死亡告知書」によれば、「陸軍伍長川﨑秀義」は「昭和20年6月15日義烈空挺隊作戦トシテ沖縄島戦闘ニ於イテ死亡(戦死)セラレ候條此ノ段通知候也」との通知がなされていた。

 ところで、叔父秀義が実際に戦死したのは、昭和20年5月24日、いわゆる太平洋戦争末期の沖縄戦における陸軍特別攻撃隊(特攻隊)の列に入る義烈空挺隊隊員として、沖縄島の北飛行場ないし中飛行場付近に於ける米軍との戦闘において戦死したのである。

 

  義烈空挺隊

 義烈空挺隊は、太平洋戦争における我が国の戦局不利となりつつあった昭和19年11月、米軍B29重爆撃機の出撃する本拠地となった米軍占領下のサイパン島基地を挺身攻撃(主に重爆撃機戦隊に搭乗し米軍の飛行場等に強行着陸して上陸し、爆破、夜間戦闘により攻撃)し、日本の本土空襲に飛来する米軍機の本拠を覆滅する任務を持ち誕生した。その後、昭和20年2月、米軍の硫黄島上陸攻撃に伴い、同空挺隊を硫黄島基地攻撃に使用する議が起こったが、戦局利あらず中止された。昭和20年5月16日、義烈空挺隊を戦雲急を告げる沖縄戦に対する「義号作戦」に従事する決定が下された。その間、空挺隊員は、熊本県の健軍飛行場を本拠地として戦闘訓練に従事していた。

 義号作戦は、総員一三六名の義烈空挺隊員が陸軍重爆撃機一二機に分乗し、相当の陸海軍の爆撃機、戦闘機などの援護を得て、沖縄島中部に上陸した米軍が占領する北飛行場及び中飛行場に対して強行着陸により急襲し、両飛行場を使用不能に陥れて、沖縄戦における日本軍の戦闘を援護する特攻攻撃作戦であった。

 昭和20年5月24日早朝、義号作戦は決行された。義烈空挺隊員は各自が、軽機関銃、短銃、手榴弾、爆薬、擲弾筒等により重武装していた。隊員搭乗の重爆撃機一二機は、健軍飛行場から発進し一路沖縄を目指した。重爆撃機のうち四機は故障のため帰還したが八機は突撃し、うち数機は撃墜ないし墜落したが数機は北飛行場ないし中飛行場に強行着陸し、搭乗の空挺隊員が飛行場に散開して米軍兵舎、戦闘機等を破壊、米兵を射殺、数日に渡り両飛行場の機能を麻痺させたものの、突入した空挺隊員は全員が戦死したと報告されている。

 昭和20年8月15日のポツダム宣言受諾による我が国敗戦の日から僅か二か月余り前のことであった。