カテゴリー:ブログ 更新日時:2018年3月9日
叔父の二通の手紙
叔父秀義は、昭和20年5月24日に義烈空挺隊として出撃する前日と前々日に、父川﨑末治郎(私の祖父)に宛てた遺書と言える二通の手紙を認め、これは奈良市の末治郎の元に届けられた。叔父がこの覚悟の手紙(遺書)を二通認めたのは、当初の出撃日は五月二三日であったが、天候不順等の故から二四日に変更されたため、二三日付けで再度手紙を認め父末治郎に送ったのであろう。
二通の手紙は、歳月を重ねて黄色く褪せ、虫喰い跡も残されていた。
叔父の二通の手紙を閲してみよう。
【昭和20年5月22日の手紙】
「 其の後御無沙汰致しております。すぐに御礼状を出さなくてはと思ひつつ永くなりました。相変らず元気で軍務に邁進しておりますからお休心下さい。此の度○○に行きます。本懐とするところです。国の為に嬉こんで死んで行きます。
大戦果をお待ち下さい。
新聞で見られたら、秀義も一員として花々しく戦って死んで行ったと思って下さい。犬死には全体致しません。別に何も書きません。此の手紙も自分が出発してから附近の人から出して戴きますので防諜上何にもかかる事は有りません。
沖縄へ行きます。
日本の土地で死ねると思ふとうれしいです。
一.金百五拾圓也、送金致しましたからお受取下さい。
今迄の不孝をおわび致し、皆々様の御健康をお祈り致します。
父上様 秀義
昭和二十年五月二十二日
出撃前夜 」
【昭和20年5月23日の手紙】
「 五月二十三日 出撃前夜
お父様皆々様も御元気のことと思ひます。
秀義も此ちらへ行って益々元気でおります。
愈々出発の刻が来ました。元気で行きます。
大君の為に喜こんで死にます。
此の前 二、三時間、家に帰って皆様の壮健なお顔を見、今更何のみれんものこりません。君国に捧げた此の身体、此のときの来るのを待ちこがれていました。別に何も書きません。
今迄の不孝をお許し下さい。
遺書とて何もありません。
最後に皆皆様のご壮健をお祈りしつつペンをおきます。
父上様 秀義 」
死地に望むにあたり、最後まで家族の無事を願い、末期に多額の送金までして、潔くも二度にわたり覚悟の文を認めた心中は如何ばかりか。
私は、遺されたこの手紙を手にするとき、叔父が如何にして死地に赴くことを覚悟し、親に贈りし最後の言の葉を認めたかに思いを巡らし、言を失い、ただ粛然として黙するの外ない。
戦死の遺品を見出す
私がこの二通の手紙を見つけたのは、私の父川﨑義治が平成9年1月に死亡した後、その遺品を整理していたときのことであった。
父は、生前ときおり、自身が召集(徴兵)された日華事変当時に陸軍の重機関銃部隊として従軍した上海上陸から南京攻略戦までの戦争体験を私に話すことはあったが、叔父秀義の戦死の詳細を私に話したことはなかった。私は、叔父が落下傘部隊に所属したことと南方で戦死したことしか聞かされていなかったため、おそらくインドネシアのスマトラ島パレンバンの空挺作戦などで空の神兵として戦死したのかと思っていた。
ところが、父の遺品を整理する中で、さきほど触れた叔父の陸軍履歴書と死亡告知書と二通の手紙、空挺隊員としての日々の訓練日誌一冊(昭和19年12月から翌20年3月)など、さらに義烈空挺隊の華々しき戦果を報じた当時の新聞の切り抜きも見つかり、私は叔父が沖縄戦で戦死したことと、靖国神社に合祀されたことを知った。叔父の遺品には、空挺隊員として戦友同士で元気に水泳訓練に励む様子や、その合間に数人の戦友と肩を組んで笑顔を見せている写真もあった。
その2、3か月後に、鹿児島県知覧町長から、同町が設置している知覧特攻平和会館で毎年行われている特攻隊慰霊祭の案内状が亡父宛てに送られてきたことから、私が記念館にお尋ねしたところ、叔父が沖縄戦に参戦した陸軍特別攻撃隊の戦列に入る義烈空挺隊員として戦死したことに関する資料を送って下さり、沖縄にて戦死したあらましを知ることができた。