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沖縄特攻義烈空挺隊 逝きし叔父の手紙と戦後譚 その3(川﨑)

カテゴリー:ブログ 更新日時:2018年4月2日 

平和の礎と叔父の刻銘

 私は、昭和の時代から沖縄を毎年のように何度も訪れてきた。暖かい沖縄の南の島々の眩しい陽光とゆったりとした時の流れが私の性に合ったからと思う。

 太平洋戦争の沖縄戦激戦地となった南部戦跡や沖縄県の平和祈念資料館も折々に訪れ、沖縄戦の全ての戦没者を追悼し二度と再び戦禍のない恒久平和を祈念するため沖縄県が平成7年に開設した「平和の

(いしじ))」も幾度か訪ねた。広大な「平和の礎」では、沖縄戦等により亡くなった県民、軍人、内外を問わず二十数万もの氏名を御影石の碑に刻銘、慰霊しておられる。

 叔父秀義が沖縄戦に出撃し義烈空挺隊員として戦死したことを知った私は、しばらくして、家族と共に沖縄に旅して平和の礎を訪ねて頭を垂れたおりに、礎の石碑に刻銘された方の氏名を検索する画面(平和の礎の案内所に設置の検索画面端末により刻銘された方の氏名と碑の位置が分かる。)に川﨑秀義の氏名がないことを知った。礎の管理棟でお聴きすると、現在刻銘されていない方は、沖縄戦で亡くなられたことが判る資料があれば、都道府県庁を通じて沖縄県に依頼されれば刻銘されるとのことであった。

 そこで私は、沖縄で死ぬる覚悟で出撃し果てた叔父の御霊を思い、平成11年1月ころ、奈良県庁の所管課に叔父の死亡告知書や陸軍履歴書などの資料を提示し、沖縄県庁によって平和の礎に叔父秀義の刻銘をして頂くように依頼した。その後平成12年に入り、奈良県庁から私の元に、沖縄県庁がこの刻銘をして下さった旨の連絡があった。

 平成12年8月、私たち家族は再び盛夏の沖縄を訪れ、叔父の名が刻まれた平和の礎(

 

 

(いしじ))の碑の前に立った。

 

  軍人の母・祖母の涙

 叔父の母ヨ子(よね)(私の祖母)は明治23年生まれであった。六男二女の子供のうち、長男である私の父を含む上から四人の男子を徴兵され戦地に送った。私の父から聞かされていた、祖母ヨ子が出征する我が子への餞(

 

 

(はなむけ))とした言葉は、いつも、「陛下の赤子として御国のお役に立つのは一家一族の誉れ、御国のため頑張れ。」というものであった。祖父末治郎も祖母ヨ子も、実直そのものの明治の夫婦であった。

 叔父が戦死したとき、私の父はすでに南京攻略戦の大別山戦闘で負傷した傷痍軍人として召集解除となり、帰還して自宅に帰っていた。その父から聞いた話では、祖母ヨ子が、我が子の中でただ一人、叔父秀義の戦死を当局から知らされたとき、「秀義が死んだんや。」と言いながら、奈良市内にあった自宅の玄関から小雨降る門先へ傘も差さずにとぼとぼと歩み出て、しばらく佇んでいたという。父はそのときのことを、「お祖母ちゃんは泣いとったけど、誰にも涙を見られとうなかったんや。」と私に話した。

 祖母は、叔父秀義の葬儀のときも、気丈な振る舞いを通し、誰にも涙を見せなかったという。

 

  みづくかばねくさむすかばね

 大戦中に戦意昂揚の歌曲とされた「海ゆかば」の歌詞は「海ゆかば水漬く屍、山ゆかば草生す屍、大君の辺にこそ死なめ、かへりみはせじ」である(出典は万葉集の大伴家持、作曲は信時潔)。この歌の如く、先の日中戦争から太平洋戦争までの戦争により亡くなった国民は、陸海軍186万人、民間人66万人の総計252万人とも言われ(経済安定本部復員局統計による)、最近では総計310万人を数えるとも言われている。

 戦闘により戦死した兵卒のみならず、インパール作戦、ニューギニア島、沖縄、フィリピン諸島など数多の戦略戦術の過誤により名もなく人にも知られず病死、餓死し「水漬く屍、草生す屍」となった兵卒等は数知れず、米軍の無差別市街地絨毯爆撃など本土空襲により焼死・爆死した一般国民も30万余を数える。先の大戦は「大君の辺にこそ死なめ、かへりみはせじ」の精神の横溢であったと思う。

 昭和26年9月に日本が世界48カ国とのサンフランシスコ講和条約締結により独立回復を確定したとき、時の世論を受けて、昭和27年1月の国会衆議院予算委員会において議員から昭和天皇の御退位を希望する趣旨の質問がなされたところ、応じた吉田首相は「非国民と思う」と一蹴して議論は終息した。もとより政情の安定や法的政治的に無答責かの論はあろうが、その名の下に二百数十万もの国民が犠牲となった冷厳な史実を照顧すれば、世に喧伝される戦争責任や東京裁判などの度重なる検証も点睛を欠き、私たちが未来へ向かうための新たな精神的脊柱を立て直す機会を逸した憾みはぬぐえない。

 

  エピローグ

 我が国は、大半が焦土となって以来、戦後60年余にわたり営々と平和で安全な社会を構築し、世界でも希な経済的繁栄を享受するまでになり今日に至った。今の私たちの豊かで平穏な日常生活は、僅か60年前のたった4年間の戦禍による膨大な死者の墓碑銘のうえに成り立っていることを銘記する外ない。

 私たちの身の回りの人々の幸福な日常生活も平穏な社会生活も、その淵源を辿れば、先の大戦において、最愛の人の、家族の、友の、国民の、未来の幸福を願いつつ、大切な命を捧げて逝った数多の犠牲者がその礎となられたことを、よも忘れじと思う。

(奈良弁護士会々報 平成19年所収)